会報「北のみなと」No.56より
 北方領土、言うまでもなくロシアとの問でその帰属について未だ解決 していない北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を示します。 私が青年会議所に所属していた1999年に、その返還運動の一環として参 加した「ビザなし訪問」について話したいと思います。

 1999年5月26日、期待と不安の中、コーラルホワイト号に乗船、根 室港を出航しました。4時間ほどすると我々の視界に国後島が入ってき ます。喫水の関係で直接接岸できず、希望丸という(日本から送られ た)はしけ船に乗り移り、子供たちが出迎えてくれている港に上陸しま した。(写真-1)接岸する際もその方法は荒っぽく、前の年に建造され た鋼製の岸壁は傷だらけで、その周りに取り付けていたであろうピンド ルの姿はまばらになっていました。

 私は元ロシア軍の空軍に所属していたと思われる一家の出迎えを受け ホームステイ先である彼の家へ案内されました。身振り手振りの国際交 流?しかも一人ぼっちでのホームステイで心細い思いでした。でも、家 のテレビからは日本の衛星放送が映し出されていましたし、家の外で携 帯電話の受信可能なポイントを見つけ、ひとりで喜んでいました。食事 の前にはナショナルパーク(国立公園?)と称する島の反対側の海岸線 を見せてもらいました。北海道の太平洋側の景色を思わせるもので改め て北海道とつながっていると思いました。

島民の歓迎(写真-1)

交流会(写真-2) 立っているのが筆者
 お楽しみの夕食は隣の猟師一家と一緒で日本人の仲間も居たのでホッ ト一息。出されたものは日本語で「ヒグマ」「ヒグマ」といっていた通 り、猟師の彼が自分で狩ってきたヒグマの肉でした。生まれて初めて口 にしたヒグマの肉は意外にあっさりしていて美味しかったです。話が途 切れるとすぐにウォッカで乾杯するので、調子に乗り飲みすぎてしまっ たことはいうまでもありません。

 ここで、国後島内の様子を紹介します。もちろん舗装道路はありませ ん。走っている車は全て日本車でナンバーは付いていないものばかりで す。給油は日本から帰ってきた船から抜き取っているそうです。動かな くなった車は空き地に野積み状態ですから、オイルが自然に漏れ出して いました。
 建物は一部カナダの業者が建てたという新築の家も見受けら れましたが、そのほとんどが日本人が住んでいたときに使っていた施設 です。個人の家や幼稚園は内装の表具がカラフルでロシアを感じまし た。
 病院は日本時代のままで、レントゲンや手術台といったものは現役 では使えないような旧式のものでした(同行医者談)(写真-3)。
 学校(現 地島民との交流会で使われた)で、一番びっくりさせられた事に、トイ レがあります。もちろん男性用のトイレですが、仕切りといったものが 一切なく便器が並んでいるだけのものでした。昔の日本のトイレ?今の 時代で良かったと思わされました。 

最後に現地島民との交流会で印象 に残ったことをいくつか紹介します。
 一点目は、北方四島といってもそれぞれの島民の意識が違うこと。択 捉島はロシアの資金が投入され都市化が進んでいるのに対して、国後・ 色丹にはロシアの資金が回ってこず、島民が本国から見離されている ような疎外感を持っているように感じました。
 二点目に、ロシアの人にとっては四島は暖かい地域で住みやすいと感 じていること。
 三点目に、島に住むロシアの人にとっては既にそこが故郷になってい ることです。ここで生まれここで育ち、三世代目に入っているのです。
 四点目に、島民は日本に大いに期待感を持っていること。

 それにしても、子供たちの純粋のこころ、ゆったりとした時間のなが れ、日本人が忘れかけている何かを感じさせます。四島一括返還にこだわり続け、 こう着状態が続く領土交渉。自由に往来が出来、交流が進み、 共存できるような時代が早い時期に訪れることを願うのは道民、島民 の共通の気持ちであるように感じた『ビザなし訪問』でした。


病院の前で(写真-3)

モスクワにて(写真-4)